このページでは、東八田に関わりのある、偉人をご紹介致します。
生没年不詳。鎌倉中期の武将。上杉氏の祖。藤原清房の子。式乾門院蔵人、修理大夫、左衛門督に任ず。
1252年、宗尊親王とともに鎌倉に下向し、将軍の近習として仕える。このとき丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉)を与えられ、上杉氏と称するようになる。重房の娘は足利頼氏に嫁し、また重房の子頼重の娘清子は足利貞氏の妻となり、尊氏、直義を生んだ。上杉氏は足利氏と密接な姻戚関係を結び、以後足利氏の外戚として重きをなした。
足利尊氏の母として著名。
上杉氏は足利氏と親密な関係で、上杉清子は足利貞氏に嫁いで尊氏を出産。
その清子が、上杉荘の光福寺(安国寺の前身)にあてた土地寄進状に「生まれ育ちたる所にて…」と記している。
清子が上杉氏の氏寺にしたいと願った光福寺、その思いは尊氏に届き、全国に安国寺を設置するに際し、光福寺を筆頭安国寺とした。
安国寺境内に建ち並ぶ三基の宝篋印塔は、上杉清子・足利尊氏・赤橋登子(尊氏の妻)の墓といわれている。
1342年没。
尊氏は、延元元年(1305)母・清子の実家、上杉氏の所領であった丹波国上杉庄(綾部市上杉町)で生まれた。「産湯」を汲んだ井戸や産着で作られた袈裟などが現在も残されている。その54年の生涯は、流浪と離別とともにあった。鎌倉から京、京から鎌倉、再び鎌倉から京、そして九州を経てみたび京へ。そして、後醍醐天皇との確執、執事の高師直や実弟・直義の殺害など、政の利権をめぐる戦いに翻弄され続けた。征夷大将軍にまで上り詰めた武将には不釣り合いなほど、悲運の影が付きまとう。
高僧・夢想疎石は「合戦に命を捨てねばならないようなときでも、笑を含んで畏怖の心がない。慈悲心は天性であって人を憎むことがない。心が広大であって物惜しみ気なし」と尊氏を評し、彼の人徳と勇気、慈悲、無欲をたたえている。彼の生涯にわたる苦難の道は、戦国の武将らしからぬ優しさがもたらしたものなのかも知れない。
四季の移ろいに様々な表情を見せる古刹「景徳山安国寺」。この寺の片隅にひっそりと佇む三基の宝篋印塔。中央に尊氏、脇を固めるのは母・清子と妻・登子。波乱万丈の生涯を生きた彼にとって、悠久の平安が得られるこの地は、終の棲家としてふさわしい場所と言えるだろう。
幕末動乱期。西洋列強のアジア進出政策により、江戸の安寧が失われつつあった頃、国難の危機を救ったとされるのが、 京都の「山本読書室」。天然では採れない硝石の作り方を解説した「硝石製錬法」を出版。全国各地からの問い合わせが殺到し水戸藩にも伝授していた記録が残っている。その山本読書室に残されていた「硝石製錬法」の著者が梅迫の代官であったとされる十倉半助という人物。山本読書室に硝石製造の知識をもたらしたとされる。
(2022年1月NHKBSプレミアムの番組「歴史発掘ミステリー京都 千年蔵[山本読書室]」で詳しく紹介されました)
古くから上杉地域の農業は、谷水や雨水に依存していたため、毎年のように水不足に陥り、水をめぐっての住民同士の争いがあとを絶たなかった。特に夏の時期には多くの田畑が干ばつに見舞われ、作物が育たず住民たちは生活に困窮していた。
大正のはじめ頃、若くして神戸に出て実業家として成功した時岡鶴吉は、この悲惨な状況を見ながら上杉で育ったため、いつか自分が水不足で苦労している故郷の人々を救いたいと考えていた。そしてついに鶴吉は私財を投げ売って施福寺の戸谷に大規模な溜池をつくることを決意。大正8年、住民の協力を得て「農業用ため池」を完成させた。
「農業用ため池」が出来てからは住民たちの水争いは無くなり、安心して水稲栽培や野菜作りができるようになり、人々の暮らしも少しずつ安定してきた。住民たちは、時岡鶴吉翁の功績を讃えいつまでもこの恩を忘れないよう、神として池のほとりに時岡神社を祀り、八坂神社には胸像を建立し後世に伝えることとした。そしてこの戸谷の「農業用ため池」はいつか鶴吉の一字をとり「鶴の池」と呼ばれるようになり、現在も貴重な水資源として活用されている。
大正4年、現在の舞鶴市で生まれる。政治家(元参議院議員、元京都府知事)、綾部市名誉市民。
東八田村に転居後、昭和3年に東八田尋常小学校を卒業。舞鶴中学校、旧制第三高等学校、東京帝国大学法学部を卒業し、昭和14年、農林省に入省。以来、近畿農政局長、園芸局長を歴任し、26年間農林水産行政の発展に貢献する。
昭和41年から3期12年、昭和61年から2期12年にわたって京都地方区選出の参議院議員として国政に参画し、豊富な経験と卓越した識見、誠実な人柄で昭和62年11月、第一次竹下内閣の法務大臣に就任。
また昭和53年から2期8年、京都府出身の初めての京都府知事として、京都府並びに郷土・綾部市の発展に尽力するとともに、東京あやべ会会長として同郷者の交流にも尽力する。
平成10年、綾部市名誉市民の称号(第2号)を受ける。
平成19年、逝去。